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 凧 八 に つ い て
現 代 駿 河 凧 の 元 祖 と は
凧八の発祥
古くは、
静岡市内に20軒近く、駿河凧を製造しているうちがありました。

しかし、凧というのは季節のもので、通年の商品ではなかったため、「際物師」と呼ばれる類の商売でした。多くが、駿河凧の専門店というのではなく、家具や提灯といった、他の家業を持ちながら、凧を製造していました。

凧八も、例外ではありませんでした。三代目・加藤辰三郎の時代には、雛具(雪洞)の絵付けなども行い、店舗では、きんつば屋を営む傍らで、子供相手に凧を描いていたものです。

現在の駿河凧は、大正元年に亡くなった静岡市新通りの賤機藤吉(しずはたとうきち)が元祖といわれております。そしてその弟子に、保本徳次郎、加藤徳次郎(凧八・二代目)がおりました。

賤機藤吉から二人に伝えられた技は、それぞれの子孫へと受け継がれ、〔加藤徳次郎→加藤辰三郎〕という流れを辿って、今日まで残ったのが、駿河凧「凧八」です。

変 わ り ゆ く 継 承 の か た ち
男系から女系へ
凧は絵師だけでは作れない〜竹籤師・裏方仕事の存在〜
マスコミの取材などで、必ずと言っていいほど訊かれる事柄に、「女凧師って珍しいですよね。どうして凧師になろうと思われたんですか?」というのがありますが、世間一般の常識では、やはり、まだまだ〔凧=男子のもの〕、〔凧作り=男性のもの〕という印象が、拭い去れないようです。


事実、凧というものは古来より、端午の節句や男子誕生の祝い品として作られてきたものですから、そう思われるのは当然のことなのかもしれません。


また、好んで伝統の技を後世に受け継いでいこうと、職人の世界にやってくる若者は一握りでしょうし、そんな、ただでさえ稀と言っていい後継者のなかで、更に女性ともなると、真に珍しい存在といえるのでしょう。そのせいか、世間の興味は、どうしても、この〔女凧師〕という事柄にばかり注がれてしまうようです。


また、好んで伝統の技を後世に受け継いでいこうと、職人の世界にやってくる若者は一握りでしょうし、
そんな、ただでさえ稀と言っていい後継者のなかで、更に女性ともなると、真に珍しい存在といえるのでしょう。そのせいか、世間の興味は、どうしても、この〔女凧師〕という事柄にばかり注がれてしまうようです。

それでは、どうして元は男系に受け継がれてきた凧八の家業・駿河凧作りが、女系へと移り変わっていったのか、その経緯について、ここで、ご説明したいと思います。

これまであまり表立って語られなかったことですが、凧八の凧作りは、先にご紹介した継承者たちが唯一人で受け継いできたものでは決してありませんでした。実は、その裏にはもう一人の職人がいたのです。

子供相手に凧を売っていた時代が過ぎ、ちょうど三代目・辰三郎の頃には、昭和40年代の観光ブームなどもあり、郷土品が見直された時代でもありました。

それに伴って注文が増え、作る凧の枚数が増えると、絵を描くのは辰三郎の仕事でありましたが、竹を削って竹ひごを作り、それに和紙を貼るのは、もっぱら妻・加藤きのの役割となったのです。ときには孫娘の幸江(五代目の母)も手伝ったといいます。

よく揚がる凧を作るのに、確かな技術力を必要とする竹ひご作りの仕事を担っていたのは、実は女性だったのです。

三代目・辰三郎の死後も、裏方として、きのは竹ひご作りをして、四代目を継いだ娘・阿さ子をサポートしていました。しかし裏方は裏方として、マスコミの取材などにも表立って出ることはありませんでした。

この二人三脚スタイルは今日まで受け継がれています。きのの死後、裏方を継いだ者もいるわけです。
四代目・阿さ子に息子がないということもありますが、今は、阿さ子の長女・福嶌幸江(ふくしまゆきえ)が、その重要な裏方作業を担っております。

男系から女系へ、突然に切り替わったのではなく、絶えず裏方として、女性がいたという下地があったからこそ、自然な移り変わりが可能だったと思われます。

凧は際物師、道楽仕事〜高度成長期と凧八の変容〜
そしてもうひとつ。
凧八の家業が、男性から女性の手へと受け継がれていくこととなった、最も大きな要因として、社会の風潮の変化が揚げられます。

三代目・辰三郎の後、その娘の阿さ子が四代目を受け継いだわけですが、辰三郎・きの夫妻には、阿さ子の他にも子があり、男子もおりました。

しかしながら、辰三郎・きの夫妻は、「これからの世の中、男子は学をつけて世に出ていくべきだ」という考えから、あえて家業を継がせようとはしなかったのです。

今でこそ、凧屋としての看板を掲げていますが、先にも申し上げたように、当時の凧屋は「際物師」。
サラリーマンのような安定収入は、ありませんから、息子たちに後を継がせなかった辰三郎夫妻の気持ちにも納得です。当時、辰三郎は新聞の取材に対して、凧稼業を「道楽仕事」と云い、自分の代で絶やして良いと話しています。

従って絶頂期で辰三郎が急逝した折、続く社会のニーズに対して、すぐに家業を継げる者といえば、それまで見よう見真似で手伝いをしていた娘の阿さ子しかおらず、阿さ子に息子がないように、裏方で手伝う娘の幸江にも息子はなく、いつしか凧八では、女性が凧師になるということはごく自然な流れとなっていったのです。


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