凧は何に使われていたのか?
現代では、子供の遊具や縁起物として、皆さん認識されている『凧』ですが、大昔に作り出されたときの、そもそもの目的は、全く違うものだったようです。
敵情視察や情報伝達をするための兵器であったり、豊作や凶作を占うための道具であったりと、その用途は遊びとはかけ離れた、かなり実用的なものでした。
また、もともとは木を材料として作られていたようです。
いまでこそ、各地方によって多種多様で、個性的な形をしている凧ですが、恐らく木で作られていた頃には、もっと武骨で味気のない形をしていたことでしょう。
現代に伝わる色彩豊かでバラエティに富んだ形の凧は、丈夫で軽い和紙と、屈曲自在な竹との出会いがあったからこそ、完成されたものといえるでしょう。
日本においては、和銅6年(注1)の『肥前風土記』(注2)に“幡”という記事が見られます。もう少し後の平安時代には「紙鳶」と記述されているのが、おそらく凧のことではないかと言われています。やはりそのほとんどが、武具や占いの道具として用いられたものでしょう。
駿河凧の起源は!?
静岡市に伝わる駿河の凧が作り出されたのは、今から400年ほど前――今川義元公(西暦1519年〜1560年)が、駿河の国を治めていた戦国の時代にまで遡ります。
戦勝祝いとして家臣が製作し、揚げたのが始まりと伝えられています。人々は大空に舞う凧をみあげては戦の勝利を喜び、その平和が少しでも長く続く事を祈ったのではないでしょうか。
凧が民間に広まり、遊具や縁起物として親しまれるようになったのは江戸時代に入ってからのことです。和紙の精製技術が進んだことも、その大きな要因のひとつといえるでしょう。
江戸時代の人々はみな凧揚げが大好きだったようで、凧揚げブームが最高潮に達した幕末期には、凧揚げに熱中するあまり仕事を放り出す者や、田畑を荒らしてまで凧揚げに興じる人々が後を絶ちませんでした。
弱り果てた幕府が“大凧揚げ禁止令(西暦1845年)”なるものを発令したことからも、そのヒートアップぶりが窺えます。
静岡の凧として、そして、日本の凧として。
駿府の城下においても凧揚げは盛んに行われ、地元の若衆や子供達が3月(現在の4月)には、町の西部を流れる安倍川の河原で、凧揚げ合戦などを行っていたといいます。
また明治28年頃までは、4月に行う浅間神社の廿日会(はつかえ)祭(さい)(注3)に、「河原行き」と称して、やはり安倍川の河原にて、二十枚張り、三十枚張り(注4)の大凧を揚げ、競い合っていました。
長年、土地の凧(郷土玩具)として親しまれながらも、まだ「駿河凧」という、固有の名称はありませんでした。昭和中期の本では、凧八二代目・加藤徳次郎の凧も、「凧(静岡)」とだけ、紹介されています。
「駿河凧」という名称は、昭和40年代に、凧八三代目・辰三郎が広く世間に認められた折に、郷土の版画家・小川龍彦氏(1910-1988)らによって命名されたもの伝えられます。
駿河凧はこうして、駿河の人々と風土に育まれた、いわば地元文化の結晶といえるでしょう。
しかしながら、この半世紀で子供で遊具であった『凧』は、すっかり玩具・遊具という位置からは転落したように思われます。どちらかといえば「装飾品」「お土産品」「縁起物」といった観賞用としてのニーズが大半です。「凧揚げをしたい!」と思われるような凧を愛好する方は、自ら好みの凧を作って揚げておられるのが現実でしょう。
手描きの和凧である駿河凧は、高価なイメージがあり、揚げるのには相応しくないと感じられる方が多いようです。実際は、どうでしょう?
どうか、このサイト内を徘徊して「駿河凧」について、考えてみて下さい。
浮世絵は芸術品として存続しても、庶民文化である凧絵は廃れてしまうのでしょうか?
アニメキャラにある著作権は、凧絵に描かれた人物にはないのでしょうか?
静岡の駿河凧は、凧八の駿河凧は、日本の文化として生き残るのでしょうか?
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注1:西暦713年。日本の都が奈良の平城京にあった頃です。
注2:肥前国は現在の佐賀県です。
注3:徳川家康が安倍川の西の建(たき)穂寺(ょうじ)にお参りになった際、稚児の舞を気に入り、2月20日の「お會式」に奉納したのが始まり
注4:昔の手漉き和紙の大きさを基にした数え方で、一枚が「一尺×一尺五寸(30.3cm×45.45cm)」程の大きさです。
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